おおむた弓道クラブ

我家の射道

 我家の射道は人生に矛盾を感じて是を道破したいと希う者と、自己の真性を覚証したいと希う者と の二下根が聖賢になりたいのでも、人師になりたいのでも、職業にしたいのでもない。唯、平凡な人 間即ち真の人間になり、貧賎にも移されず、富貴にも淫せられず、威武にも屈せず、恩愛にも乱され ず、各自その天職に従い、実存を知り、存分に自己を尽くし天を畏れ、及ばずながらも各自の日常底が、 たとえ一分にても世の役に立ちたいと、懸命の修行を続けているのが、我家の射道である。
 また修行にあたって、見聞に着し、念処に搏われ、自己を尽すことさえ容易でないと覚っては、人 事を尽して天命をまつというも、自己さえ尽し得ないところに人事の尽しようもないと、更に覚って は層一層の修行を積み、真道を実践悟得するより外に道がないと覚る。即ちこの言詮を絶したる実践 道がまた我家の射行道である。
 かくの如く我家の射道は真実修行道であるが故に、人師となるはおろか、二十年三十年、一生かか っても、天地当然の真理に則し、相差うなきにちかきを得ざれば、自己の行業明らかならず、いわん や人師となりて、他を真に教化することの不可能を覚り、自己の分限を知りてますます自己を戒め、 敬虔の度を加え、遂に之を成ずるに到り、更に子孫に伝うるのである。
 射義については既に顕正射道儀において表明してあるから再記を要しないが、ただ一言を要する点 がある。それは射裏見性のことである。
 射裏見性とは、仏教の見性成仏と同事であって、本来の自性(不垢不浄なる真の清浄)を平等差別 を超えて自覚内証することであって、これを得れは、則ち宇宙当然の真理自ら明瞭となり、而して求 めずと雖も自らこれを具有顕現せしめられ、神人合一、仏凡不二の境に往来して、一切の教行道徳自 ら備わり、真性実相を毫末の矛盾なく踏破する底、即ち世俗に云う大悟徹底である。ここに到って、 初めて神武不殺も行われ、弓箭報国の実も挙げ得られ、唯拳無相仏処も実現出来るのである。即ちこ れを射中に覚証することを射裏見性と云うのである。
 この射裏見性は年久しく聴く言葉ではあるが、未だ一人として、射裏見性は如何なるものか、如何 なるが射裏見性であるか、その実体を示した者も説いた者もない。もっともこの境は言詮を絶したる 境で、文字言語に表現不可能ではあるが、事実この境に往来している人は、また容易にこれを表現す ることも出来る。一例をあぐれは禅の語録等に表われたる先徳の教行行為がそれである。しかしなが ら今日までこの境の近くまでも、射人において説き行われた人を見たことも聞いたこともない。故に 今日の射人、一度真箇の修行を志す者は必ずその師にこの境を求め問うて行詰り、その何物も所有せ ざるを知って悶え、広く天下に之を求めて得られず、前轍を繰返すのみに止まり、遂にその師を離れ るか、或はただこれと情実を脱し難きため、離れざるか位にて、その志は異なり自ら迷執を打開せん と健気にも血涙をしぼって苦行を続けているのが現在の有様である。このような真の求道者は偶々我 家に来って、射裏見性の何物たるかを知り、何物かをつかんで、自己修行の軌道を自覚し、迷執打開 に懸命を続けられている人々はすくなくない。
 以上の次第で射裏見性といえば、射中に自己真性を発見自覚することであるとのみ知られているの ではなかろうかと疑われる。

原則の会で配られたコピーの写しです。執筆者・出典は不明のでしたが、神奈川の川畑さんよりお便りを頂き分かりましたのでメールの一部を転載します。
「我家の射道」は、武禅(ブゼン)に収められている梅路見鸞(ウメジケンラン)師の言葉だそうです。梅路見鸞師という方は、本多利実翁の下での阿波研造師の兄弟子に当る方で、武禅というのはその梅路 師の道場で編まれた冊子で、梅路師の言葉やお弟子さんが書かれた道場での出来事などが綴られているそうです。


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